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生きること

毎日人生を諦めようって思って生きてきた。これまでの人生も今も、私は悪い意味で誰かに奉仕することで存在意義を見出してきたと思う。治らない病気。私を大切にしない家族。私は自分の存在が、人生が今でもよくわからない。自分を大切にする方法が正直あまりわからない。私は私を肯定できない。

私は今でも自分が死んでもいいし、結構どうでもいいと思ってるんだけど(たった1人の同級生の友人は良くないって言ってくれる)他の人が苦しんでるのだけは耐えられなくて、それを知っている自分がその人を支えないこと/声をかけないことに耐えられなかった。家父長制の呪いから逃げ出すこともできたけど、それで苦しむ家族がいるのを知っていたから逃げ出さずに支えることを決めたのも私。自分の意思だった気もする、だけど実際は逃してもらえなかったんだと思う。自我の無さというのかな、誰かのあとについていかなければ、誰かのみよう真似をしなければ社会で生きられないとすら思っていたかも。自分の足で立てなかった。奉仕することで、見放されない自分がお利口だって思って生きてきた。本当に私、自分の人生がわからなかった。今まで死にたかったのが、実際に今誰かと会話しながら、ちょっとだけ誰かを助けることに参加させてもらって、心からはじめて、何もわからなくない、出来なくはないのかもしれないって思えた。

全部がいやで、家から飛び出して泣きながら走ったことがある。つらくて、寂しくて、叫びたくて、許せなくて。だけど、途中で自分には行く宛も、お金も、何もないことに気づいて、泣くのをやめて諦めて家に帰った。何も変えられない自分が大嫌いだった。いなくなってくれたら良いのにと思った。

すごく傲慢で自分勝手すぎる話だけど、必死に生きようとしてる人がいるのに、死のうとしてる私ってなんだろうってどうしても考えてた。そんな風になる自分を認めつつも、誰かと繋がっている限り私は誰かのために何かしようと動けるみたいだし、今後も誰かのために死ぬことはないんだと思ったりして、今はそれで良い気がした。きっと私だけだったら死んでいるんだと思う。

別に私が抱える問題やトラウマや苦しみの全てがくだらないなんて言うつもりも天秤にかけて否定するつもりもなくて、だけれど、ガザの人たちから勝手に生きるということを教えてもらって、彼らが生きようとしているなら、私も生きなければならないと思った。勝手に勇気をもらって、特に大したことをしていない私にやさしい言葉をくれる人たち。私にはもったいのない人たち。できるだけ、この人たちに恥じない私であろうと思えた。これ読んでる人によっては、もしかしたら大袈裟って思うかもしれない、実際私は自分で少しそう感じてる(笑)躁鬱発動って感じでさ(泣)(笑)だけど、ほんとなんだ。辛いのも本当、死にたいのも本当だけど、なぜか少し生きようって思えてる。偽善だエゴだと言われるかもしんない。でも、どうでもいい。私はこの人たちと繋がっている限り生きたい。助けたいから、死ぬわけにはいかない。それだけの理由じゃだめかな?わからない、自分が良くないこと言ってるかもしれないのに、それすらわからない、まだ自信がないよ。けど、これでいいかな?生きてたいって思えたんだけど。